飲酒で寿命を縮めた藤原道隆
紫式部と藤原道長をめぐる人々⑥
拍車をかけるきっかけとなったのが、一条天皇の即位だった。一条天皇が兼家の孫にあたるため、呼応するように兼家は摂政に就任。宮中の実権を掌握した。
そんな父の後を追うように、990(正暦元)年正月、道隆は自身の娘・定子(さだこ/ていし)を一条天皇に入内させた(『日本紀略』)。父と同じく、天皇の外戚となるべく、外堀を埋め始めたのである。もっとも、この頃の一条天皇は11歳。子をなすにはあまりに若すぎたが、道隆の娘を入内させるため、兼家は異例の早さで天皇を元服させたのだった。
同年5月に兼家が亡くなると、道隆は関白に就任。ところが、まもなく摂政に転じている(『日本紀略』)。わずか11歳の天皇を成人のように遇するのはさすがに困難だったようだ。同一天皇の関白から摂政に転じるのは、極めて稀な例といえる。
なお、一般的に、天皇が幼い場合に政務を代行して行なう役割が摂政で、成人した天皇を補佐するのが関白の役割とされている。
道隆は父・兼家の手法を踏襲し、自身の子である伊周(これちか)や隆家の昇進を次々に強行する一方、入内させた定子が一条天皇から寵愛を受けるなど、その地位が盤石なものとなりつつあった。
さらに、995(長徳元)年には、次女の原子(げんし)が居貞(おきさだ/いやさだ)親王に入内。「中関白家」と呼ばれる系統を築き上げ、道隆を頂点とした家系は絶頂期を迎えた。
残る懸念は自身の跡取りのみ、とばかりに伊周を関白に就任させようと目論んだが、これには失敗。死期を悟っていたからか、同年中に出家し、そのまま亡くなった。享年43。無類の酒好きだった(『大鏡』)ことから、死因は糖尿病との見方が有力だ。
なお、道隆の後の関白職は弟の道兼が引き継いでいる。病をおして自ら伊周の関白就任を天皇に奏上していたが、結局、叶わなかった。道隆の死後、栄華を極めた中関白家は急速に衰えていくこととなる。
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